明治大学体育会競走部公式ウェブサイト
競走部紹介
競走部紹介
競走部の歴史
昭和22年(1947年)~昭和41年(1966年)
復活と激走の時代
昭和22年(1947年) 第23回箱根駅伝。
復活第1回大会の記念すべき大会に優勝。18年ぶりに優勝旗を
駿河台に持ち帰った。メンバーは、戸田省吾、溝部隆、沖田昭三、
沢栗正夫、岡正康、湯浅儀一朗、牧野博、君野幸一、小林一郎、
田中久夫。
思い出の箱根駅伝 箱根駅伝の合宿は荻窪の常藤監督の自宅の離れ部屋をお借りしまた。
食糧難も監督にお世話になりました。戦後復活第1回箱根駅伝は、昭和22年1月4日、5日
で私は1区で朝7時読売新聞社前のスタートでした。
当時は近くにホテルも無く、3時半に起床して監督と私は荻窪の合宿より明治の自動車部
員のサイドカーで読売新聞社前まで送られて行きました。
東京の朝は寒さ厳しく零下6度、全選手寒風のなかのスタートでした。当日1区の走行距離
は多摩川にかかる六郷橋が修理のため、4哩長い川下の大師橋を渡りました。
戸田省吾(昭和25年卒業)
第23回大会の優勝メンバー
昭和23年(1948年) 第24回箱根駅伝。3位
昭和24年(1949年) 第25回箱根駅伝。
中央が前回優勝メンバーの7人が残り優勝確実といわれていたが、
打ち続くブレーキで、優勝争いは明早の対決となった。一進一退の
手に汗を握るレースを沿道に繰り広げてファンを沸かせた。
八つ山橋付近で早稲田を逆転し通算7度目の優勝をした。
メンバーは、島村和男、峯尾裕之助、田中久夫、久保晴良、岡正康、
林和夫、乙倉英雄、槇野敦宣、安田正、木渓博志。
第23回日本選手権。山田逸二(紫交会)が三段跳で優勝。
昭和25年(1950年) 第26回箱根駅伝3位。
明法戦が再開。116対99で明治の勝利。
常藤俊雄監督 終戦後の時代の選手にとって忘れられないのは「常さん」の愛称で呼ばれた
監督さんである。駅伝のため荻窪の自宅を合宿所として提供、食料を十分に確保して練習に
専念させてくれた。ありがたいことであった。
少しおっかなかったが選手を可愛がり、小さいことに拘らず明治の先輩らしい豪放な情熱家
でもあった。選手達からも親分と呼ばれていたが、ラビットという名のスクーターを愛用2日間
のレースではサイドカーの船からダミ声で叱咤激励した姿は、今でも目に浮かぶ。
田中久夫(昭和25年卒)

25回大会3区、区間新の力走をする田中久夫
地元の期待を担って 当時の応援は学校から1台、藤沢・平塚・小田原の駿台会が各1台
のトラック(木炭車)を出して、華やかに繰り広げられました。荷台に鈴なりになって石油缶や
太鼓をたたいていました。
一般の人の中には自転車で並走する方もおり、また学校の先生、親戚のおじさん、近所の
人も夢中になって応援してくださいました。
当時は東海道の交通量が少なかったので、先輩がチョークで「明治久保がんばれ」と書いて
くれたこともありました。シューズはスパイクの釘を取り、地下足袋のゴム底を自分で縫い付
けました。親指が分かれたマラソン足袋よりもスピードが出るように工夫したものです。
夏苅(久保)晴良(昭和25年卒業)

4区久保晴良と大応援団
昭和26年(1951年) 第27回箱根駅伝2位。
第1回アジア大会。水除順男が400mと1600メートルリレー
に出場。
第35回日本選手権。水除順男、800mで優勝。

昭和26年第3回法政対抗戦(八幡山)、108対105で明治が勝利

第27回大会4区国府津駅付近の樽木選手
昭和27年(1952年) 第28回箱根駅伝4位。
昭和28年(1953年) 第29回箱根駅伝4位。
昭和29年(1954年) 第30回箱根駅伝5位。
第2回アジア大会。十種競技に笹井烈が出場。
第6回対法政対校戦で勝利。4勝2敗とした。がこの年の勝利を最後
に、平成18年第56回大会まで連敗をしている。
堀越好夫(昭和29年卒業) 当時は秋の国体でトラックシーズンが終わり、それから駅伝の
練習に入ったもので、明治の練習コースは駿河台から皇居前内堀―青山渋谷駅・外堀―
四谷新宿、あるいは御茶ノ水から東大前―駒込王子駅折り返しコースで信号待ちも無く自由
に練習が出来ました。
毎年11月関東学生10哩が代田橋から井の頭公園折り返しコースで行なわれ、各校ともこ
の大会で選手の実力を試し箱根の本番に臨んだものでした。
第30回の記念大会は昭和29年1月6日、7日の2日間にわたって行なわれ、1区にエントリ
ー された私は最後の年でもあるし主将としての重責を担っておりましたので、何とか無難に次
走者にタスキをわたすことを念頭に快晴の有楽町読売新聞社前をスタートしました。
八ッ山橋をトップで走る堀越選手
昭和29年12月競走部は、かねてからの部内の感情の対立などの紛争により、学校側の
申し入れにより解散し、再出発をすることとなった。これにより新春恒例の箱根駅伝は参加不
可能となった。
選手達は自費でも出たいとの希望を明らかにしたが「もし、出るならば除名する」とまで言わ
れ、箱根湯本の水明荘に合宿していた駅伝チームは27日の夜涙をのんで帰京したと言われ
ている。
この一連の騒動は、その後の活動に多大な影響を与えている。100年の歴史の大きな傷を
残した出来事だといえる。
昭和30年(1955年) 箱根駅伝出場辞退。
第39回日本選手権。十種競技に笹井烈が優勝。
昭和31年(1956年) 第32回箱根駅伝14位。
懐かしい競走部 昭和27年の春、私は初めて八幡山グラウンドの土を踏みました。その時、
第2コーナーの脇の竹薮の横に古ぼけた器具や石灰が置いてある小屋が目に入りました。
物置小屋と思い中をのぞいて見ると、小屋の半分ぐらいには土足で上がれそうな色の畳が
敷いてありました。
よく聞いてみると、合宿所が無いのでそこに住んでいる先輩が2人ほどおられることだった
のでビックリしました。
1年が過ぎた頃だったと思いますが、待望の合宿所が八幡山に出来上がりました。それは
どこかのお寺の建物を移築した古材むき出しのものでしたが、合宿所生活は極めて快適でした。
有田真爾(昭和31年卒業)
宮井国夫 ラグビー部のOBで在学中は名ウィングとして鳴らし、昭和30年のラグビー部の
主将。この宮井選手は短距離にも非凡な才能を示し、陸上シーズンには、ピンチランナーと
して、インターカレッジ日本選手権(昭和30年)の100mに出場「重タンク」と呼ばれるダイナ
ミックな走法で最高記録10秒6をマーク。
不振の競走部に貴重な得点をもたらし偉大な助っ人として忘れてはならない存在。
昭和32年(1957年) 第33回箱根駅伝14位。
第41回日本選手権
安田寛一が110mハードルと400mハードルに優勝。4×400m
リレーで明大チーム (安田寛一、筒井勗、橋本洋、大谷直樹)が
優勝。
昭和33年(1958年) 箱根駅伝不参加。
第3回アジア大会
安田寛一が110mハードル(3位)、400mハードルに出場。
第42回日本選手権。110mハードルに安田寛一が優勝。
昭和34年(1959年) 第43回日本選手権。110mハードルに安田寛一(OB)が優勝。
箱根駅伝予選会を1位で通過、3年ぶりの出場を決めた。
関東インカレで2部転落。
昭和35年(1960年) 第36回箱根駅伝10位。2年連続不参加のあとを受けて、1年生
主体のチームで3年ぶりの出場をした。
関東インカレ1部昇格。圧倒的な得点(130点1/2)で優勝。
第44回日本選手権。110mハードルに安田寛一(OB)が優勝。
1部に復帰して 今大会では昨年の2部転落という不名誉の挽回と全員闘志を燃やし、その
結果総合優勝、トラック優勝と2位を大きくリードして1部に復帰することができました。
主将 酒井宏禎
1部復帰記念写真
昭和36年(1961年) 第37回箱根駅伝。復活の5位入賞を果たした。
第45回日本選手権。110mハードルに安田寛一(OB)が優勝。
昭和37年(1962年) 第38回箱根駅伝
堂々の2位。この快走は本学にとっては昭和26年の27回大会以来
の快挙で、久々に沿道のファンを喜ばせた。
第46回日本選手権。110mハードルに安田寛一(OB)が優勝。
昭和38年(1963年) 第39回箱根駅伝。2年連続の2位。往路4位。復路優勝。
競走部時代のアルバムから合宿所の生活においては、当然のことながら、上級生、下級
生の関係はきびしいものでしたが、当部においてはいじめや暴力等、理由の無い制裁の憶
えもなく、どちらかというと諸先輩は人の良い方々が多かったように思い、いつも押さえつけ
られている感じはそれほどありませんでした。
学校の授業にも、比較的自由に出席させていただけたため、多くのクラスメートとの交流も
図れました。
また、箱根駅伝を走った後のある日の英語の授業の際、ミスター落合も出場した、箱根駅
伝で明治は大健闘であった旨の紹介をされクラス全員の拍手を受けたこともありました。
落合 宏(昭和40年卒業)

第39回大会の表彰式の後で
昭和39年(1964年) 第40回箱根駅伝。9位。
第48回日本選手権。110mハードルに安田寛一(OB)が優勝。
第18回東京オリンピック大会に安田寛一が110mハードルに出場。
昭和40年(1965年) 第41回箱根駅伝。8位。
関東インカレ再び2部に陥落。
昭和41年(1966年) 第41回箱根駅伝。10位。